そこでは思想=意見でさえも「ブランド」として「選ぶ」べきものとなる。ブランドとしての意見を発することでようやく自己確認されるような個性とは、論壇知識人たちの意見を唱和し新聞に「投書」することで安心を得るような個性に等しい。
そのような個の集合を構成しているのは、学生、主婦、老人。だから新聞の「投書」には、現代日本を支える会社員からの、会社員としての、実業の視点に立ったリアルな意見は極めてまれだ(たとえば、中東に支社を持つ企業の経営戦略として)。
だから彼らはいかにも優等生的な、しかし「現場」においては何の有効性も持たない意見を吹聴し、安堵していられる。
エゴイズムから、本当の意味で「等身大」から意見は発せられることはないのだろうか。だが、一般の大衆にそれを求めることはほとんど不可能である。そういう意見を持つ人でも、多くの場合――民主主義的に非道であるとされるような、つまり社会的に抑圧されるような――エゴイスティックな立場からはものを書かず、書いたとしても妙に取り澄ましたものになりがちなのである。とすれば、それは本来は「知識人」の責務なのではないか?とまれ、人々の多く、一部の例外を除いたほとんどすべては、湾岸戦争という「事件」に際し、何かをいう立場にはなかったのだ。
そしてそれは正常で正当なことである、と。
「無力だけど、戦争阻止のために何かをしなければ」ではいけない。意味がない。
「無力だから」「力をつけて」「その力で戦争阻止のために何かをしなければ」と、考えなければなにも始まらない。そういう新聞投書の背景にあるのは、「微温的生活をがっちりガードしたい」という欲求、そして「善く生きたい」という欲求のアンビヴァレントな分裂である。
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